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雑種犬肉球日記

雑種犬が書いたブログ。

もはやノスタルジアなんて言い訳にしかならないと解っているけど

いやはや。

観るほどに凄い映画だね。「立喰師列伝」。

そうなんだ。すまない。まだこの映画の話、続くんだ。

 

昭和史を裏側から描いたものだということは、前に書いたかと思うけれど、時代の転換点を実に巧みに見せてくれています。

終戦直後に登場した月見の銀二から始まって、ケツネコロッケのお銀、哭きの犬丸。犬丸までは店主との対話、コミュニケーション能力が大いにものを言うゴトのスタイルなのですが、筑波万博をきっかけとした外食産業の勃興と同時にあらわれた牛丼の牛五郎のスタイルが、一つのターニングポイントとなっているのですね。

牛五郎は仲間と徒党を組み、チェーンの牛丼屋へ姿をあらわして、店員と会話の一つもないまま、ひたすら牛丼並を注文し食べ続けるのみで、店内の備蓄を食い尽くす、というスタイルのゴトで、それは即ち、始まった大量消費の時代に対するアンチテーゼとなっていました。消費されることを前提として作られる大量の食品に対し、徒党を組んでただただ食べ続ける。膨大な食べ物に挑むうえで、よって立つ根拠は唯一、自分達の胃袋だけ。店主をケムに巻く対話能力も、相手の心理を読みスイートスポットを衝く洞察力も必要としない、純粋な物理での勝負。コンビニやスーパーマーケットのような、その気になれば無言のままで買い物を済ませられる時代の始まりと共に、立喰師のゴトのスタイルがここでガラリと様変わりしました。

ハンバーガーのテツのゴトを経て、その「コミュニケーション不要」は、中辛のサブの登場でついに「コミュニケーション不能」という極北へ至ります。

カレースタンドにあらわれるインド人こと中辛のサブは、コミュニケーションに発展しそうな言葉は発さず、カレーを食べてひと言「チュカラ」と単語を口にするのみ。「チュカラ」だけを連呼することで、店主の意識を「インド人を納得させられるカレーを出す」ことへ向けさせ、いかなる対話もないままに店主の心理を追い込むという、もはやコミュニケーションを拒否したスタイルのゴトで、およそ銀二やお銀の、店主との対話を前提としたゴトとは真逆の様相を帯びているのです。

 

人が生きている以上、食べることは変わらないとはいえ、時代と共にものを食べるかたちは、大きく変わってしまいました。店主との会話が当たり前な店もあるものの、ファーストフードやファミレスといった「対話しないのが当たり前」という店が、石を投げれば鴨撃ちレベルで当たるほどあり、もう「時そば」なんて成立しないご時世です。

便利ではあるけれど、あのターニングポイントで振り落としてしまったものが何だったのか、私達にはもうすでに解らなくなってしまいました。よいものだったのか。捨てるべくして捨てたものだったのか。

どうやら私は、滅びてゆくものに惹かれる性分のようです。

 

狂言に歌舞伎、クラシックにシャンソン、寺社巡り、本格探偵小説、喫茶店…。好きなものの大半が古いもんばっかりだもんなあ。

困ったもんだ。