雑種犬肉球日記

雑種犬が書いたブログ。

ボーナストラック:人の目を惹くものの陰には必ずえげつないもんが潜んでいる

朝起きて、飯を食いながら朝のワイドショーとか見ていましてね。

ノーベル賞の話題になって、内心めっさ笑いましたわ。

なんか、平和賞を韓国の大統領とキタチョウのカリアゲ君と、トランプにやるんじゃないかって噂があるそうですよ。

まー、やるだろうね。ノミネートされたなら。

すげえわかりやすく注目されるもの。

 

そもそもの、ノーベル賞設立の歴史成り立ちはさて置いて、その主眼や目的を考えるにつけ、この話、まるで否定できないんですよ。

以前、押井監督のメルマガでノーベル賞の話が出た際、インタビュアーを務めるメルマガスタッフさんの質問に「あれはスウェーデンが国際的な注目を浴びるためのものだから」と監督が答えていらして、それを読んだときに、なんでいきなりこんな人間に賞を与えるんだ、と首を傾げたくなる受賞者がたびたびあらわれることへの疑問が、なるほど! と、こう、一度に晴れました。功績を鑑みれば選考の基準がまあわかりやすい医学や科学なら別論、判断基準が個人によって大きく変わりかねない、すさまじく相対的な評価で選ばれかねない、ザックリ言えばすげえ曖昧な基準、下手すれば選考者の好みや打算で選出されていても否定できないもんでしょ。文学賞と平和賞についてはそう思ってますが、まじで世界の平和だとか文学の未来や発展だとかを真剣に考えて選んでるとか、信じてる人ってどの程度いるんですかね。もしいたら、おそろしいまでに何も考えずに世界を見たままでしか捉えてない、ただの不感症なのじゃないかしら。

星海坊主(親父)とマミーは「有効宣言しようって言ってるだけで何も結果出てないのにやるのか」と、おかしいだろうと言ってますがね、そういう、賞の存在理由だとか機能だとか授賞の目的を考えれば、あんなもんは「言ったもん勝ち」なんですよ。デモンストレーションがうまくやれた奴に、御見物の拍手のかわりに進呈されるだけであって、その授賞すらもやっぱりデモンストレーションの域を超えることはないんですよ。

そういう、賞を取り巻く状況を考えてから改めて現状を見ると、バカのリトマス試験紙になっていて愕然としました。

韓国は一般市民が盛り上がっていて、話題になったことについて当の本人はこれといって語っておらず、キタチョウのカリアゲ君にしても、もともと対外的なコメントなんてまず出さない国だということを差っ引いても、まあこれといって何も語っていないわけで。ところが米帝のヅラのおっさんはというとね。

話が出るどころか、ぼちぼち選考が始まるよねって頃から主催国にゴマを擦り、集会では支持者にコールさせ、ついったで大はしゃぎし、と、もうね、見苦しいにもほどがあるだろ。てゆうか、こんなもん、そこまでして欲しいか?

 

いまいち存在感が薄い国が、国際的な注目を浴びて主役に躍り出るためのものでしかない、とことんまで政治のためのツールでしかないものを、そこまでして欲しがるって、無邪気というか馬鹿というか。

 

そういう諸々の事情のいやらしさを考えるにつけ、やっぱり私は、内実はゲスいのに変に権威づけて澄ましかえってるノーベル賞よりも、つまらん打算だの政治だのとは全く無縁で、すげえ技術や知識を狂おしいほどに無駄生やしして、至高のクオリティでアホたれなことをしているイグ・ノーベル賞の方がはるかに上だと思っています。

 

判断の基準に余計なもんが立ち入ってない方が、賞としてまっとうですよ。