休みの午後に、越南珈琲を飲みながらゴロゴロしてました。
今日のお茶の友はこの1冊。
日本本格ミステリが誇る「おんなのこが親に紹介しやすい」系好青年・森江春策君!
読むべし。
書き下ろし1作を含む中編5作からなる本で、舞台となるのは大阪及びその周辺地域。
読んでいる間、私がずっと考えていたことはひとつ。
これは、同じことをしようと思っても東京では無理だ。大阪だからこそ成立する物語だ。
きのう今日と、ついったのタイムラインで偶然にも、大阪の街、それも千日前を中心とした一帯でさまざま、不可思議な現象が起こり怪談めいた噂が数々囁かれているというツイートをいくつか目にしていたところでした。しかも京都に限らず、大阪もまた、古い建造物が多数そのまま残されており、リフォームはされているものの、戦前戦中の建物をそっくり使用している場所もあるそうで、そうした建造物の歴史を知って、怪談話が多く噂されるのも無理はないと思ったものです。
それを意識して思い出さずとも、来し方を振り返る触媒とでもいうべき役割を果たすに足るものが、街並みに多く残されているということは、その場に染み付いた過去の残り香を感じ取りやすくなってもおかしくはない。では、なぜ同じように多少なり歴史を背負っているであろう東京には、そうしたおどろおどろしい因縁話があまりないのか。
理由は明快。
東京は「現在」を上書きしているだけの街だからです。
積み重ねたものをほぼ否定して、スクラップ&ビルドを繰り返す街だからです。
今、この瞬間しかない場所で、過去を幻視なぞできようもない。そういうことです。
この「現在」を上書きしている、という表現は、押井監督がブロマガのインタビューコーナーでおっしゃっていた言葉ですが、見事に正鵠を射ておられます。
江戸から東京と名が改まるときに。関東大震災で。東京大空襲で。それ以降は、時代に合わせて何度も再開発され、20年30年前に住んでいた町へ足を運べば、もう昔の面影はどこにも見られない場所になっています。100年前にここで大火事があって、とか言われても、ピンとこないどころか遠い異国の話の方がもう少しリアルに感じられる、そういう街になっているのです。
なればこそ、この本に収められた物語はどれも、過去を踏まえた上で現在がある大阪だからこそ成立するのです。たぶん京都や奈良でもできるでしょう。でも東京はいけない。東京大空襲絡みの因縁話でも残っているならまだ可能性はあっただろうけど、東京にもはやそんな余白や糊しろはありません。山梨との県境辺りや五日市周辺でのものは耳にしたことがありますが、繁華な街中からは離れ過ぎてもはや東京とはいえないし。
ちなみに五日市のものは、まじでシャレならん忌まわしさ。時代が近過ぎる分生々しくて、あんまり触れたくない。
怪談話にせよ本格ミステリにせよ、過去を否定してはいかんのだ。