久々に「真・女立喰師列伝」観ております。
オムニバスで数人の女立喰師の物語が綴られておりますが、私のお気に入りは鼈甲飴のユリ、バーボンのミキ、クレープのマミと、ラストを飾る最後の立喰師・ケンタッキーの日菜子です。
ことにケンタッキーの日菜子は、世界の終わりに立ち会った立喰師ということもあって、そこはかとない寂廖が漂っています。
衛星軌道からのHALOに対し地上からのミサイル、それをかいくぐっての降下と戦闘。乗機から降り立って独り彷徨う日菜子が呟くのは、たった一言。
「もう一度、食べたかった…」
これですよ。
どんなに悲惨な戦争が起ころうと、そのせいで世界が滅びようと、人間が生きていれば喰うことはついて回るんです。
世界は滅びた。腹を満たして、さて何をする?
滅びたものを呼び還すのか。新しいものを一から築くのか。
時間は流れる。というか、とりあえず人間だけは残っている以上、時の流れを感じる主体はあり、それ故にこそ時間は流れる。では人間は、すべてが滅びた荒野に、どんな未来を幻視するのか。
呼び還した、あり得たかもしれない燦然たる希望なのか。もはやどんな夢すら視ることはないのか。
よし、それはゆっくり考えることとして、まずは腹ごしらえといこう。
それにしても、ケンタッキーの日菜子はどんなスタイルのゴトだったのか気になりますね。
月見の銀二は説教による啓蒙、ケツネコロッケのお銀は自身の美貌をバックボーンとしたアジテーション、哭きの犬丸は去りゆくものに寄りそう故の、攻撃されることを前提とした自虐。時代を象徴する立喰師には、独自のスタイルがありますが、世界の黄昏にあらわれた立喰師のゴトとは、どんなものであったのか。ちょっと知りたいですね。
「立喰師列伝」「真・女立喰師列伝」この2本、ホントに名作です。機会があったら是非観ていただきたい。終戦を起点とした昭和史を裏から読み解いてゆくという試みを、非常に実験的な手法で行なっている作品です。
観ることで深く考察する材料がたくさん見つかる、発見と示唆に富む映画です。
さて、まずは何を食べようか。