連勤終わった。
仕事中に偉いさんが来たんですがね。私に対する評価が酷すぎる。
「(今日は)酒やめようと思ってるんですよ」
「やめるなよ! 雑種犬から酒取ったら何が残るねん! 呑まなあかんやんか! 」
カッコの中は略して言ったらコレだ。
「いやイロイロ残りますよ! 」
「あかん酒はやめるなや! 」
もうね、御令嬢忙しくて気がつけば残業してたし、疲れからか接骨院に行ったら財布持って出るの忘れてたし、ダメだろう。なあ。
帰り際には新人お嬢に「お酒はダメです! 禁酒してください! 」と言われましてね。「えらい人の言ったのは悪魔の言葉です! 」って、なんだかんだまだ呑んでない。
さすがに目的地に着くまで財布忘れたのに気付かないってのはね、かなりキテるようなので、今日は呑まない。
明日は天気悪いって言ってるし、午後には雨の確率高いって話なので、午前中に起きて接骨院行く。
マミーがまた残り飯のことを言っていたので、たぶん明日は朝から飯を炒めるんだろうけど、朝のうちに起きて行こう。
さっきツイッタ見たら、アカデミー賞がやらかしましたね。
選定の基準に「多様性」を加えるそうです。
男女やLGBTQ、人種など、とにかく満遍なく多様なキャラクターが登場しているかも選考の基準にするのだそうです。
これをやるとダメなんだよ。
賞レースに加わりたいと思うと、映画のストーリーやテーマに関係のない、ただ「出てくる」「いる」というだけの有象無象をゴチャゴチャ出すことになって、何をやりたいのか、何を見せたいのかがどこまでもぼやけることになるんです。
あちこちにいい顔を見せ、いうこと聞いて、とやっていると、映画はただの画面がでかいテレビ番組になっちゃう。最近だと「おっさんずラブ」の劇場版とか典型的でしょ。ドラマがなまじ面白かっただけに、ファンやスポンサーやその他他方面へ気を使ったら、ただ画面がでかいだけのテレビドラマになっちゃった。同じことが起こるよ。
一方で「TRIGUN」の劇場版が名作になったのは、そういう余計なことを一切やらなかったから。
劇場版だったらGUN-HO-GUNSの2人3人も出して、とかナイブズ君出して、とか、原作ファンが大画面で観たいであろう派手なことをやりたくなるだろうけど、それ一切やらなかった。トンガリとニコ兄にミリメリのヒロインコンビ以外は全員ゲストキャラ、お話も旅の途中でたまたま立ち寄った町で騒動が起こる、という番外編的なもので、原作やテレビ版を一切引きずらなかった。大正解。
それをやると、せっかく映画として作っているのに、スケールが限定されちゃうからね。クライマックスのアレなんて、テレビシリーズでやろうと思っても難しいよ。あれは映画だからこそできる類のケレンで、だからこそ痛快なの。テレビであれをやるとキャパオーバーで消化不良起こしかねないからね、だから劇場版でやってこその大正解。
誰だ今「どうせお前ニコ兄ガチで好きだから身びいきで言ってるんだろ」とか抜かしたのは。
ああそうさ! ニコ兄好きさ! てゆうかニコ兄は、女性ファンはいまだに「本気で好き」って言う真の漢前だからな! そりゃあ好きさ! 本気で! でもそれを差し引いても、単純に映画として観ても結論はこうなんだよ! 悪いか!
もっともらしく聞こえるように言うと「TRIGUN」劇場版が成功したのは、番外編的なストーリーにすることで、登場人物を絞って、キャラクター全員に対して責任をとれたということですね。ちゃんとみんなが物語の中で何がしかの役割を負っていて、なんでいるんだろうというキャラクターがいなかった。
私が懸念してるのはこの点なんですよ。
おかしな条件をつけることで、それをクリアするためだけに、なんで登場するのかがあやふやな、役割があったとしてもこじつけにしかならないような、不憫なキャラクターが量産されかねない。作り手が責任を取ってやれないキャラクターを生み出させるなよ。
八十振以上いる中で、メインの登場キャラクターを本能寺に出陣した部隊六振+本丸留守居役の鶯&不動ゆきちゃんに絞ったとうらぶ劇場版を見習え。
なんかクダ巻いてるように見えてたとしても、まじでいまだに呑んでません。今日はこのままお茶飲んで寝る。
明日は早く起きるぞ。