仕事して接骨院に寄って来た。
首はまたしても寝違えていて、もうこれ明日どうなってるか逆にワクワクが止まらないですな。
「確か、こういうときには『オラワクワクすっぞ』というのが流行りなのではなかったか? 」
「大包平、お前随分と流行に敏感だな」
「大包平様、どこかで『ドラゴンボール』お読みになりましたか」
「この前の脇差杯餓狼伝説大会に、古備前代表枠で出場したのだが、トーナメントだったもので待機時間があってな。そこで、他にも待機したり敗退して結果だけ見たくて残っていた連中と一緒に、配信でアニメを見ていたらやっていたんだ」
「アニメは五虎退も大好きなんですよ」
うちの男士はどこで何を見てるのか、わかったんもんじゃないな。
「そういえば管理人さん、最近読書はしているのか」
え、どうしたドン包平。藪から棒に。
「ふと我に返ってみれば、アニメと映画とゲームの話が大半だろう。きちんと読書しているのか気になった。管理人さんは小説だって嫌いではなかろう」
まあなあ。今もどうでしょう見ながらなんとなーくお茶飲んでるもんね、わしら。
読書ね。読書、最近はずっと「百年の孤独」読んでるよ。通勤のカバンに入れてるから、昼の休憩とか電車内で座れたときとかで読んでる。
解説が筒井先生なんだけどさ、解説文の中で「マルケス読むなら『族長の秋』もいっとけ(要約)」っておっしゃってて、だいぶ前だけど買って読んでたのな。この筒井先生のお言葉で、自分の感覚というかセンスというかが、そうおかしなことにはなってないと確認できた。よかった。ありがとうございます筒井先生。
前に違う南米出身の作家、パウロ・コエーリョだったかな。もう忘れたけど、たまには違う毛色のものも読んでみるかと思ったら、あまりにつまらなくて危うく本を壁にスパーキングするところだったけど、マルケスは何読んでも面白かったしすごかった。
短編の「エレンディラ」なんて、アホほどでかいお屋敷が丸焼けの原因が「蝋燭の火を消し忘れ」! まあ確かに消し忘れは危険だが、いや、電灯より蝋燭のほうが身近なのか? その辺どうなん?
「まあ、日本で生活していると、電気はほぼ普及しているからな。異国ではまだ蝋燭や松明が照明として使われている国も多いのだろう」
「生活のサイクルをお日様基準にしている地域もたくさんあるだろう。日の出とともに飲む茶はさぞやうまかろうな」
「お前は茶を飲むことしかないのか」
「朝のうちは馬も腹を空かせているだろう。お日様が出たら握り飯を持っていってやらねば」
「管理人さん、他にはマルケスの小説は何を読んだことがあるんだ」
「大包平様、流しましたね」
平野君、気にしたら負けよ。
そうだな、ゆうてそれほど読んではいないのよ。タイミングで出会ったときに所持金が、買って帰っても問題ないくらいだったら買うって感じなので、今うちにあるのはこの本と「族長の秋」に「エレンディラ」、あとは「予告された殺人の記録」くらいか。
「しかし、読んでみると実にケッタイというか、本当にこんなこと起こるわけないだろ! そんな、街の住民全員不眠症とか、そんなことになるかぁ! 」
ドン包平、ノリツッコミはもっと歯切れよくいっとけ。
だが、南米ってこのくらいなんでもありなんだそうだぜ。
南米からヨーロッパに留学して、シュールリアリズムに出会った若者が、シュールリアリズムすげーなオイ、って言いながら実家に帰ったら「俺の地元がシュールリアリズムすでにやってた」って衝撃受けて生まれたのがマジックリアリズムだそうで。ちなみにシュールリアリズムと出会っていた、おそらく同時期の芸術家がジョセフ・コーネル。おんなじ棒の一方の端にマルケス、もう一方にコーネル、って感じなのだろうか。知らんけど。
さあどうだドン包平、ちゃんと私は買った本を放置してないとわかって安心か。
「よしよし、その調子でいけ。積読などという、釣った魚に餌をやらないような真似はやめろよ」
アッハイ。
「どうだ管理人さん、大包平は面白いだろう」
おもしれー刀だな。
さあ、そろそろ明日の支度しておかないとな。連隊戦は周回したので、明日の支度もしておかないと。
今日は随分と涼しいので、窓開けて寝よう。クーラーはいらんな