うへへへへ。
散髪してきましたぜぃ。
言ったとおりにユリオみたいな感じになりました。
だいぶ伸びっぱなしだったので、後ろをバッサーいってすっきりしました。
午前中にスポーツジム行って、帰ってすぐ美容院。で、終わってからちょっとマクドナルドで涼んで、iPadでモノ書きしてました。
明日はまた仕事。すいか死ぬほど斬ってきます。
んあー。
今日は何書こうかしらー。
ああそうそう、ライコネン=サンの写真を見せると、見る人見る人ひゃく万人がイケメンというので、ライコネン=サンは不動のイケメン。
ああ、あれだ。
この間まで「有頂天家族」2期をテレビでやってましてね。
原作もハードカバーで出て即座に買って読んでおりまして、アニメも楽しく観ておりました。
んで。
この間、ふと思ったんですよ。
この物語、確かに下鴨四兄弟のお話ではあるんだけど、ひょっとするとアレじゃないのか。
原作第2部のラスト、あの何処か不穏な幕切れ。あそこを読んで凄く違和感があったのですが、アニメでビジュアライズされたのを観て思ったんですよ。
これ、もしかして、弁天様の物語なんじゃないのか。
琵琶湖のほとりを歩いていた女学生が天狗にさらわれ、天狗としての才能を見出され、あらゆる男をかしずかせていてもどこか虚しくて、ただでさえ自分が何者なのか、人なのか天狗なのか、ふらふらとして自分でも判らなくなっていたのが、二代目が帰ってきちゃったり、赤玉先生が自分をさらったのが、自分を見てでなく、過去の女性の影を見てさらったのがわかったりで、弁天様が好き勝手に振る舞うようになったのも、アイデンティティを問われて、でももうわからなくなっちゃった故の自棄だったのじゃないか。
そう思うと、彼女の言葉が身を切るような辛さをはらんで聞こえます。
「私のことかわいそうだと思って」
思っていますよ、と答えながら、矢三郎には、その場しのぎの答えにしかならないとわかってしまっています。だからこそ、彼女は更に重ねるのです。
「もっとかわいそうだと思って」
自己の不確かさに正面から向き合ってしまった弁天様に、もう矢三郎は気楽に「狸であってはダメですか」とは訊けなくなってしまいました。それは同時に、弁天様にあなたの立ち位置はどこなのか、と問いを突きつけることになるから。
鈴木聡美に戻るなら、矢三郎とは食うもの食われるものにしかなれない。
如意ヶ嶽薬師坊の名跡を継ぎ天狗になりきるなら、君臨する者と仰ぎ見る者という関係にしかなれない。
だから矢三郎は悟ってしまったのです。
狸であってはダメなのだ。
だから海星をツチノコ探検隊に誘い、いやだいやだとごねていた婚約も受け入れた。
もともと狸としての自己を揺るぎないものとしていた矢三郎はそれで落ち着いたわけですが、物語の冒頭から、天狗のように振る舞いながら「だってわたしは人間だもの」とうそぶく弁天様がどこに行き着くのか。
矢二郎が弁天様を「子供」と評したのは、このアイデンティティの揺らぎゆえなのではないかと思います。とりあえず、天狗としてのちからは持ったけれど、天狗として生きることを受け入れきれていない。けれど今更ただの人には戻れない。どう生きればいいのかも見えない。
だから、物語の最後を飾る第3部で、彼女がいかなる道を見いだし選ぶのか、そこが非常に気になります。
以前に「ファイブスター物語」の作者インタビューでくりす永野センセは「ヨーン・バインツェルのエピソードは10年経ってから読むと、実はファティマ・エストの物語だったのかとわかると思うよ」と語っておられましたが、この物語もそんな感じなのではないかと思うんですよ。語り手は矢三郎だし、一見すると下鴨四兄弟を追いかける展開なんだけど、その裏側では弁天様が自己の喪失に苦しみ、自分が何者なのかわからずに苦悩している。
弁天様はどこへ行くのか。第3部で何としても見届けなくては。原作を今から正座待機だ。