雑種犬肉球日記

雑種犬が書いたブログ。

どうせ来るなら「1984年」の世界よりも「ゾンビ日記」の世界の方がはるかに救いがあると思うの

今日明日で仕事です。

それが終わると2連休。連休1日目は、審神者仲間でまんば君推しの乙女と共に、大包平と大般若に会いに行きます。

今から楽しみですよ。

ちょうど桜も見頃だし、お花見も兼ねて行ってきます。

問題は昼をどこで食べるか。時期的にめっさ混みそうだし。

ああ、ブリューゲル観て大包平と大般若に会って、その足で動物園に行くのもいいかも。ハシビロコウ先生にも会っておこうか。

 

あと2年もすると、東京でオリンピックだそうですね。

やらなくていいよ。

てゆうかむしろやめたら?

真夏の、比喩じゃなくまじで人死にが出るような気候で、屋外どころか市街地でマラソンとかするんだからさ、そんなんで出場したアスリートが健康を損なったり亡くなったりしてみろって。目も当てられないワールドワイドな恥ですよ。

しかももともとが、外国のお客さんをもてなすとか、全くできないに等しい国柄であることを考えても、およそ国際的なイベントを開催するにふさわしい場所だとは思えないんですよ。実際、日本人がお膳立てするおもてなしは、9割9分が的外れだからね。

で。

昭和39年、戦後復興のシンボルとでもいうべき、あの東京オリンピック。(ここでいきなりの押井風)

開催までの舞台裏で何が行われていたのか。

押井監督の「立喰師列伝」をご覧になったことはありますか。

終戦直後の闇市から時系列に乗って、昭和の各時代を象徴する立喰師達が登場しますが、その中のひとり、哭きの犬丸のエピソードで語られていた、あの時代だからこその乱暴なほど徹底した、野良犬の駆除。

飼い犬はまず散歩になど出ない夜中に、目印にした「毒」と大書した赤いポスターの下に毒団子を置き、誤って酔っ払いなどが食べてしまわないよう保健所員が巡回。人が起き出し、犬を飼っている家庭なら朝の散歩に連れ出すであろう頃までには団子を回収、という、大がかりで偏執狂的と言えるほどに徹底した駆除方法だったそうで、そのお陰で現在では、野良犬というものを日常で目にすることは、都市部はもちろんのこと、少なくとも私の住む西多摩では、ほぼありません。

さて、そこで2年後です。

今度のオリンピックでは、一体何を追い払いすり潰して、存在しないものとするんでしょう。

たぶんみんな同じことを考えるだろうけど、私は次に追いやられるのは野良猫なのじゃないかと思ってます。

こうやって、どんどん余白や遊びがなくなって、どんどん人間が生きにくい世の中になっていくんですよ。

 

飯を喰い排便し動いて寝て、という風に、動物というのは、いるだけですごく強烈に「いのちが体を持って生きている」状態を示しているのだけど、人間は犬を駆除して、今現在は野良猫に避妊手術を施すなどして、動物が示す身体やいのちを否定しているわけです。で、伝染病や虫害などの観点からすれば、ある程度必要なのはわかるの。ただ、必要以上に、真っ平らになるまでやらなくてもいいだろうと。

動物が生きづらい世界ということは、人間だって生きづらいんだからさ。

それとも、根こそぎ殲滅したがる人達って、生き物であることをやめたんですかね。全身義体サイボーグでさえ、脳が食事の楽しさや満足感を覚えているからマイクロマシン食とか食べるのに。生きることを肯定する自分の脳みそすら否定してるんですかね。そうすると何を根拠にして生きるんでしょうか。別にどうでもいいんだけど。

でも私、そんなところでは生きられないし生きたいとも思わないよ。

なんかおいしいもん食べたら「うまあじ! 」って言って喜ぶし、トイレに行きたくなれば「ぽんぽんいたい! 」言うし、ねむみに襲われれば思う存分寝るし、気になるものがあれば歩いていくし、そういう自分の体と、そこから生まれる感情だとか意思だとか、そういう言葉に代表されるもんは否定しないことにしてます。自分のそれを否定したら、それこそなんで生きてるのか解らない。自分が生きていることを否定しながら、何を楽しみとして、何をしたくて生きていくのか。

 

犬の次は猫、猫の次はたぶんカラスや外来動物。その後は何が追いやられるのか。

さあ、愉快なディストピアはすぐそこだぜ。(「1984年」のページを繰りながら)