ゆうべシン・ヱヴァ冒頭映像観てから寝ようとしたら、しばらく寝付けなかったのに、朝はいつもと大して変わらない時間に起きてしまった。
まあいいや。朝飯の間に洗濯して、掃除して干して、9時過ぎに家を出て耳鼻科。
平日午前中だというのに1時間以上待った。いつもはこんなに待たないところなのに。
で、サイト見たらまだ席に余裕があったので、そのまま聖地・立川のシネマシティ=サンへ。
観ちゃった。アタイ新世紀観ちゃった。
しかも極上爆音上映という業の深さよ。
えー、観て思うのは、うん、見事に葬式でした。
できる限りネタバレを回避しながら表現すると「喪主が納得できずに30年弱粘った葬儀の殯(かりもがり)」。
殯、かりもがりってのは、古事記とか読むと出てきますが、葬儀の儀式の一つで「もう動かしようがないほどカッチリ死んでる」という事実を確認するために、故人の名前を呼んで返事がないことを確かめる、というもの。3回呼んで返事がなければ埋葬を始めるというから、完全に儀式ではありますが、まあそういうことですね。
葬られる故人が誰なのか、喪主は誰なのかは、映画を観た方それぞれに思うことはあるでしょう。
ただ、最後はちゃんと「おしまい」と言える終わり方でした。それだけは確か。
旧約からQに至るまでまったくと言っていいほどに触れられていなかった、どでかい要素を突っ込んで見せてくれたので、個人的にそこはすっきりした。
「槍が…槍が出てきた…しかもすげえ重要なアイテムだった…」
よかったね杵君。槍すげえ大事なアイテムだったね。嬉しかったのはわかったから泣くな。
エヴァ劇場版というと、賛否両論だった旧約の実写パートですが、私は「アニメ」でなく「映画」という括りで観ていたので、あまり違和感は持ちませんでした。他のシーンでセルを裏返しにしたり、原画やコンテ段階の絵を出したりしてたでしょう。それも色指定が入ったり、レイアウトの指定が入ってるようなものを。そういう、建物でいうなら基礎構造や建築中の段階も見せるということは「アニメ」がやりたいのでなく「映画」を作りたかったのがわかるし、実際、公開当時はみんなエヴァの話してたでしょ。立派に映画として機能していたということですよ。
それではいかんのですか。
とりあえずシン・ヱヴァ、観終わって打ちひしがれて「返るしかないから」現実に返るのでなく、ちゃんと落としどころを見つけて「よし戻るか」と思える終わり方でした。
馬琴の「八犬伝」は28年。エヴァは26年かかりましたが、きっちり風呂敷畳んでおしまい。
そう、逃げた先に「何もなかった」というのは簡単なんだ。それなら「ここからどこへ行けるのかな」と思うほうがずっといいじゃないか。生きているなら、あの赤い地平線の先を歩いていけるんだよ。
大事なものとサヨナラしたその先を、それでも自分の人生が続くのだという現実を、どこまで受け入れられるのか。
そう、人間のほとんどは、どんなに死にたいと思っても、それで即「よっしゃ今いける一発いっとくか」とスナック感覚でポーンと死ぬことはできないわけで、そこまでの強度はない。だからこそ、生きてる以上生きるしかないという事実と折り合いつけて、死にたい気持ち生きてる事実とうまく付き合って行くしかないんです。
明日会う人が清々しい、憑物が落ちたような顔をしていたら訊いてみてください。「シン・ヱヴァどうだった? 」と。たぶん口を揃えて「終わったよ」と答えることでしょう。
きのうの段階で「何かしら引き返しようのない変革が起きるんだろうな」とは思ってましたが、ちゃんと笑って終わることができたのでよかった。
人間は未来を信じられる。やってくるそのときが少しでもよくなるようにと、知恵を絞り動くことができる。
さあ明日あさってはまた仕事だ。今日はもうやることやったし、あとはゆっくりモルカーでも観るか?
「何ば言うとっと。まずは大阪城で軍資金ば稼がんね! 」
アッハイ。
じゃあちょっと地下を掘り返してきます。