仕事して接骨院。
今日は朝軽い頭痛があったのをなかったことにして出勤、したらミョーにボケーっとしていて、帰りのバスで軽く気持ち悪くなった。
おいまた熱中症か?
「管理人さん、お体を大事になさってください」
そのセリフをバットで打ち返すぞ。
接骨院でもやばいから早く寝ろと言われましたが、夜は夜でなあ。やることがあるからなあ。
明日の弁当の支度とか食器洗って片付けるとか。
「この前までおにぎりしか持っていかなかっただろう、いささか気がかりだったんだよ。でも、やっと少しではあるけれどおかずを持っていくようになって、以前よりは食事の量をとれるようになってきているんだね」
あ、その節はご心配おかけしました。まあね、コロナにかかる前ほどは食えないけど、最近になってちょっとなら食えなくはないな、となりました。
ただ、やっぱり一番食べやすいのは軽いものですね。どうしても飯となると、重たい感じがしてしまう。
本当にあの流行り病は、人によって症状の出方も後遺症の長さも違うのがクッソめんどくせえ。恋愛と同じぐらい個人に限定される体験だよなあ。
「コロナにかかりました」という事実は同じだけど、その中身というか質というかは人それぞれ。「恋をしました」はよくある表現でも、少女漫画みたいなキラキラのフワッフワなもんなのか、うんこみたいな男に振り回され苦労し続けるのか、体験は人それぞれ違うってのと同じ。
だから恋愛ってのは物語にするのはほぼ不可能なんだよ。やろうと思うとテンプレで固め打ちするしかない。バリエーションを出すにしても、そのテンプレが基準となっていて、そこからはみ出すかどうかとか、並び順をどう変えるかとか、その程度のことしかできないし、かといってその正体は完全に個人の体験が人それぞれなもので普遍のものではないだけに、共感できるかどうか答えはすべて風の中。大勢に受けてるものはよくあるけど、一見成立しているように見えて、それはテンプレの魔力だと思いますよ。
まあこの辺は、詳しく語ると何万字あっても足りないと思われるのでこれ以上は省略。
こういう、あほの子があほなこと言って無自覚に誰かを救っちまう方が、一見ありえねえと思ってもコアの部分ではすごくわかるし、人間が生きるってのはこういうことなんですよ。
「何だかもっともらしいこと言ってるが、要は管理人さんはバーサーカー脳だってことだろう」
「まあまあ、野暮は言いっこなしだ」
「長義、それ以上はいけない」
「『孤独のグルメ』のバイトみたいなこと言ってごまかそうったってそうはいかないぞ小竜」
「かんりにんさんは、まいにちわたしたちがしっかりごはんをたべられて、なにごともなくくらしていられれば、それでなにもいうことはないそうだよ」
「それっぽいいいこと言ってごまかそうったってそうはいかない」
「長義、俺の顔に免じて、そこにはあまり触れないでやってくれ」
「顔に免じてって、大般若、あんたのどんな顔に免じろと」
「この顔」
「プリクラ! しかも加工で目がベルばらみたいになってる! 」
「これに免じて一つ」
ああ、長船の居間がなんかにぎやかだなあ。
話がそれた。
まあ、要は恋愛モノってのは、いうたら民俗学の対極に位置するような構造というか属性というか態様なんだと思っていて、だからってわけでもないけど、どうにもさっぱり理解も共感もできなかった。唯一刺さったのが「スカイ・クロラ」くらいで、アレはほら、ただ恋愛というより、もっと大きな根源的なところの愛を描いて見せてるからね。あのくらいのスケールで堂々とやってくれると見応え読み応えがあるけど、正直、隣近所の坊ちゃん嬢ちゃんがどうした、程度のレベルじゃあねえ。
そんなもん見るより、どうせならおっさんがなんかちょうおいしいものをしこたま食ってる方がよっぽどドラマとして成立するよ。
ほらな。
で。コロナの症状や後遺症の出方も個人個人でまるで違うでしょ。言葉としては同じでも、体験としてはまるで違うものなわけで、だからおそらく決して、コロナの症状や後遺症は普遍的に語れるものではないのかもしれない。って話です。
「難しい話はどうでもいいが、それだけしゃべると喉が渇くだろう。どうだ、俺と茶でも飲まないか」
ちょうどいいタイミングだな。今、口ん中バッサバサになったところなんよ。
「そこで見ていたからな」
待ち構えてたんかい!
さて、明日はまた仕事ですよ。明日出ると日曜が休みなので、あと1日どうにか生きよう。
そろそろフートンを出すか。