雑種犬肉球日記

雑種犬が書いたブログ。

日本の怪談はひたひたと恐怖がやってくるところがすごいよ

仕事してきた。きのうは全く関係のない調べ物をしていたら、思わぬ推しとの関連があって驚きましたが、今ね、私のヨーチューブはこんな感じです。

歌丸師匠の語り口が実に端正で、ちょっとしたところでくすぐり効かせる技も心憎い。

2話目・深見新五郎、捕り方に追われるくだりで「現代もお巡りさん5人10人に追われると倍くらいの人数に追われてるように思う」「小遊三さんに聞きました」で客席爆笑。怪談なんだけどね。

ただくすぐりを入れるばかりじゃあない。締めるところはきっちり締めて聴かせるんだからたまらない。普段は昼の休憩で音楽聴いたりなんかしないんですがね。こればかりは休憩中に続きが気になって聴いちゃったよね。帰りのバスと電車内でも聴いてたもんね。

ほんとにすごいよ。いっぺん聴いてみるといいよ。

「ほう『累ヶ淵』か。俺も明治の頃に、円朝の高座で聴いたなあ。いやあ、懐かしい」

しかも歌丸師匠の、このヴァージョンな、円朝以来誰もやらなかったフルヴァージョンだ。みんな最後の「お熊の懺悔」はやらなかったそうだから。

「なるほどなあ。大作なだけに、最後の幕までやると、あんまり長くてついてこられる客がなかなかいないということかな。はっはっは」

でも、そこをやらないと、いうたら憑き物落としパートがない京極堂シリーズみたいなもんでしょ。

「管理人さんは京極堂の本が大好きだからなあ」

うん。あれはほんとに、事件が起こってる最中の、もつれにもつれた人間関係やら時系列やらの全てが、京極堂の憑き物落としによって解き明かされて、解体からの再構築で捉え直した瞬間の驚愕と感嘆。ときにつらい真実が待っていたりもしますが、それでも人は前に進んでいくしかない。世界と向き合った人が何を選ぶのか。ある人は立ち上がり、またある人は打ちのめされ、残酷な現実に抗うこともあれば、なすすべもなく斃れることもある。そういう人間の姿を描くなら、ああいう形になるのだろうと思う。

てゆうか、待って相談役。何、リアルタイムで円朝の「累ヶ淵」聴いてたの。まさか本体抜け出して遊び歩いてたんか。

「いやあ、まあそういうことになるなあ。はっはっは」

何笑っとるんじゃ。

「だが、あのときは俺だけでなく、鶴丸も一緒だったぞ。驚きが欲しいとか言ってな、幕末からもう円朝の評判は聞いていたから、それなら一度なまで聴いてみようということになってなあ」

ほんともう相談役、そういうところ。

歌丸師匠のも聴いてたぞ。円朝が死んでしまってからはもう、怪談を巧みに語る噺家は出てこないかといささか物足りなく思っていたところだったからな、そりゃあ嬉しくて、全生庵の納涼落語も毎年行っていたなあ」

この野郎!

「あなや! いい子にしているのにぶたれた! じじいショック! 」

なんか羨ましかった。

「ジェラシイか。はっはっは、そういうことなら甘んじて受けるとするか」

余裕ぶりやがって。

 

しかし、最初はアルバムとか円盤買うほどじゃないが、まあいっぺん聴いてみたいなと思ってヨーチューブで探したんだけど、もうこれまじですごいから、アルバムをどこかでポチろうかとか考えてるんですよ。さもなければiTuneで出してくれないかな。という程度に血迷うくらいに、歌丸師匠の話芸は完成されているの。何も足さない、何も引かない、これがいい。という境地。

ただなあ。給料出たら「累ヶ淵」とモデルになった「死霊解脱物語聞書」を踏まえて弘経寺に行ってみたいので、もういっぺん結城に行かないとなあ、と思うんですよ。で、そうやってまた行くと、私はたぶん真盛堂で御手杵パフェ食べて御手杵カステラ買って、レンタル自転車で走り回って写真撮りまくるんだろうなという気はしてる。仕方ないだろ御手杵君の実家なんだから。

夏が終わるまでには行きたいですが、あんまりかっちりとは決めないでおこう。それやると変な義務感が出ちゃって楽しくない。行きたくて行くものに義務とかいらない。

「そう、何事も楽しくってのは大事だぜ姐さん」

…なんて説得力だ。

そうだな、ならば私も、楽しく大阪城を掘り進めよう。富田君の練度が天井までいったら51階から下を突き進むぞ。

ということで、仕事の支度して寝るか。

明日もまた通勤で「累ヶ淵」の続きを聴くぞ。